石のひとりごと

停年退職してもう12年,頭が白くなりました.

Max Weber 『職業としての学問』

ほぼ1年前に、動機の純・不純について書いた。
http://blogs.yahoo.co.jp/zosan7105/37224880.html

最近、マックス・ウエーバー『職業としての学問』を読む機会があり、上のブログ記事に関連した「動機の不純」について明確な指摘がされていた。この本は、当方大学へ入学したての1965年に当時新進気鋭の折原浩講師の社会学かなにかの講義でテクストとして使われたのだが、内容は完全に忘れていた。

この本(岩波文庫、尾高邦雄訳)のp.28に、研究の動機について書かれている。「自己を滅して専心すべき仕事を、・・・どうだ俺のいったようなことはまだだれもいわないだろうとか、そういうことばかり考えている人、こうした人々は、学問の世界では間違いなくなんら「個性」のある人ではない。こうした人々の出現はこんにち広くみられる現象であるが、しかしその結果は、かれらがいたずらに自己の名を落とすのみであってなんら大局には関係しないのである。むしろ反対に、自己を滅しておのれの課題に専心する人こそ、かえってその仕事の価値の増大とともにその名を高める結果となるであろう。」

当方は、まさにウェーバーに批判されている動機で40年余り動いてきたことになる。確かに廻りを見ると、大きな研究グループを作って世界の拠点を築いたような人はウエーバーの云う自己を滅しておのれの課題に専心しておられるように思われる。ヒラノ教授風に云えば、A級とB級の違いであろうか。嗚呼。